2012年5月18日 (金)

・星雲状態の日本語


 日本語というのは、遠くで見ると、一塊になって存在しているが、さて、その中に入ってみると、いや雲散霧消というかまとまりがない。ときとして、漠然としていて、つかみ所のない気分に襲われる。
 五里霧中と言うが、実は芯が見えないのだ。
 例えてみれば竹輪だね。
 出来たての頃は芯があったのだろうけれど、いまではガランドウだ。
 別の言い方をすると、星雲状態だね。
 もっとも困るのは、スタンダードの形が無いことだろうか。
 どの言語にしたって、スタンダードの形があり、その他にかしこまった形や、砕けた形があるのが普通だ。
 だが、日本語という星雲状態の塊は、芯を覗くと青空だけが見える。
 相対する人間同士の相対的関係や、シチュエーションで、千変万化するからね。


 毎日頻繁に交わす、アイサツの“ことば”にしたって、スタンダードがない。
 「おはようございます」が基本形なのか。「おはよう」が基本か。未だに決着はついていない。
 現実の問題として、年長者なら「おはよう」は使えるが、若者が使える場面は限られる。
 相手次第だ。そうした意味では、「おはようございます」を基本と考えた方が現実的だ。
 しかし、疑問は残る。

 ちょっと、考えてみようか。
 「おはようございます」の、最初の「お」は敬語だ。
 後ろの半分ほどを占める「ございます」も丁寧語という敬語だ。
 するってーと、本体は「はよう」だけしか残らない。
 だが「はよう」だけでは、“ことば”としてハンチクで、使いようがない。
 朝のアイサツの基本の形・スタンダードは・・・

 その上、「おはようございます」という言葉の“拍”は9音節もあって、長ったらしい。
 だから、親密な間柄では「オス」と、極端な省略語(アブリビエーション)となる。
 少し前に、「オハ」という新語を流行らせようと、あるタレントが試みたらしいが、長くは続かなかったな。

 私たち日本人は、初めっから、こうしたスタンダードのない、相手次第の日本語に、どっぷり浸かっているから、この不思議な現象を不思議とは思っていない。
 だから、日本語を外国人に教えている人は、皆さん困る。

 昔、あるアメリカの友人が言っていた。
 「何故、朝のアイサツだけ、敬語まみれにするのか」と。
 なるほど、昼は「こんにちは」、夜は「こんばんは」だ。敬語はつかない。
 そのとき私は、「そりゃ、一日の初めのアイサツを大切にする思いからだろう」と言った。
 彼は、半分納得した。
 「ああ、だから新年のアイサツも、大切だから『おめでとうございます』なんだね」
 しばらくして、彼はつぶやいた。
 「だから、人生最後のアイサツも『ゴしゅうしょうサマ』か。でも、感謝ののアイサツは『オありがとうゴザイマス』じゃないよね。
 
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2012年5月 8日 (火)

* かな文字のイメージ その1

 
 日本大辞林という辞書が、明治27年に発刊された。著者は物集高見氏(もずめ-たかみ)、 物集高世氏の長男で、父子ともに著名な国学者だ。
 この辞書には、カナ文字について、その音のもつイメージが書き込まれている。日本の辞書としては恐らく初めてのことだろう。若い頃、ワタシはこの文章を読んで、少なからず、感動したことを思い出す。
 先月までは、本居宣長ら国学者の狭い了見に批判を加えてきたが、この人は少し違う視点を持っていたのだと感じている。
 新しいシリーズの枕に、物集高見氏の音についての感じ方をご紹介しよう。
註:「音」という字には「コエ」とルビが振ってある。念のため。 

あ行から順に並べてみる。(仮名遣いは原文通り)
「あいうえお」は、嘆くと驚くとによぶ音(コエ)にて、広く大きなるものをいふにかなふ。
「かきくけこ」は、金石(カネイシ)などよりたつ音にて堅固(カタラカ)なるものをいふにかなふ。
「さしすせそ」は、風の吹く音、紙などのすれあう音にて、狭くささやかかなるものをいふにかなふ。
「たちつてと」は、琴、鼓などよりたつ音にて、剛強(ツヨゲ)なるものをいふにかなふ。
「なにぬねの」は、嘆くと驚くとによぶ音にて、また発散(ヒラキチリ)するものをいふにかなふ。
(「ハ行については、ワタシの不注意から消えたのか。もともとなかったのか。兎も角手元にはない。ご存じの方がおられたら、お教えを請う)
「まみむめも」は、嘆くによぶ音にて、まろやかなるものをいふにかなふ。
「やいゆえよ」は、嘆くと驚くとによぶ音にて、優なるもの美はしきものをいふにかなふ。
「らりるれろ」は、笛、鈴などよりたつ音にて廻転(くるくる)するものをいふにかなふ。
「わゐうゑを」は、嘆くと驚くとによぶ音にて、撓みまがれるものをいふにかなふ。

 物集高見氏は、“ことば”というものは、写生語から出来たという説をとっていて、それぞれが固有のイメージを持っていると考えていた。昔の人だから、その感性に新しさ、鋭さは見られないが、実に興味深い。
 ことに、文字の持つ音の特性や響きに何を感じるかということは、日本語を考える上で、大切な視座なのだが、そのご国語学者の多くは、あまり興味がなかったのか、重要視されなかった。何故だろうか。
 「50音図の落とし穴」につづいての、新しいシリーズは、こうした“ことば”の持つイメージ、時代と共に変化し揺れてゆくイメージについて、日本語の自由闊達な用法などを例に引きながら、ご一緒に楽しんでゆくことにしたい。カテゴリーは「音の“ことば”」に入れた。

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2012年4月28日 (土)

§ 体“ことば”最終回  目・眼・瞳 その2 

 初めは“柳腰”答弁から、ふらりと出発しましたが、どうやら日本語の市井の“ことば”は、体“ことば”なしでは成り立ちませんね。日本語の中枢にしっかり組み込まれています。それが実感です。
 まだ、鍋底についた汁を舐めるなら、続けることも出来るのですが、これで一応の区切りといたします。次回からは、日本語の音の持つイメージやら、オノマトペやら、愉快な用法を拾ってみることにいたしましょう。では、最後の「目・眼・瞳」です。
 いつものように、◎印は、日本語初心者向けです。

 ◎ 衆目の耳目(ジモク)を集めて、目がくらみ。目新しいことには目を疑って、人目につくな目立つでないぞ。目と鼻の先で、目が会えば近目になるし、目を転じれば目が届く、目を遊ばせて目を覚ませ、目に付いたなら目を通せ、目を奪われたら目が曇る、目を凝らしたら目にしみる。目に角たてれば目付きが悪い、目を丸くして目を回せ、目の色変えて目は点になる。

* 目を皿にした目利きの目明かし、見附の辺りを見詰める目付き、目こぼしないかと目をこらす。この目障りな目の上のタンコブに、眼(ガン)をつけたは賊の頭目、縄目の恥はかくまいと、人目を盗んだつもりでも、壁に耳あり障子に目あり、隣の窓には覗き眼鏡のレンズがキラリ、双眼鏡か天眼鏡か、複眼・単眼・乱視の遠視、目を光らせる監視カメラは疑いの眼差しか。

* 金の切れ目が縁(エニシ)の切れ目、そこが付け目だ百年目、お目見え奉公目付きが悪い、薄目を開けて横目で見れば、“アッカンベ”して一目散、金目(カネメ)の象眼(ゾウガン)持って逃げ。
  ーーー註;“アッカンベ”  拒否 からかい 下瞼の赤い裏をみせてーーー

◎ 夜目遠目、寄り目にひが目にひんがら目、素人目にはドングリ眼(マナコ)、贔屓目にみても二枚目とは言われまい、眉目秀麗(ビモクシュウレイ)見目うるわしき人にあこがれ、逆上せ目(ノボセメ)高じて色目を使う、眼科に通って目尻を上げて、節目を撰めば伏し目がち。

* 青眼に構えた浪人・目の付け所、心眼・正眼・目にモノ言わす。相手の家臣は目一杯、勝ち目はないと殿に目配せ、「勝負はこれまで。仕官は叶った目通り許す」と危ない目をば救われる。

* 諸国大名は弓矢で殺す。糸屋の娘は目で殺す。殺して貰えぬ町の若衆白眼視、娘は睫毛パチパチ目が早い、焦眉の急と目頭熱く、柳眉逆立て眉ひそめ、人目引こうと目玉商品の大売り出し!

* “目ン無い千鳥”は目隠し鬼の、亡き盲目(モウモク)の妻想う、目と目で交わしたあの日の出会い、月に映した面影目をかすめ、曲目見るたび、目に浮かぶ。

* 目から火が出るガチンコ相撲、出来た目の上タンコブ二つ、右の目の隈・眼帯付けて、脇目も振らずにフンドシの結び目掴むや、目にも止まらぬ早業めざまし、目にモノ見せたぞ目の敵(カタキ)、目の肥えた客の目をも楽しませ。

* 三度目の正直、潮目が変わった、賽の目には注目しろ、ぞろ目が出たら押し目で買えよ、勝ち目がないときゃ斜眼に構え、目を楽しませれば出目がくる、面目・要目・不面目、死に目にあったら題目唱えて、瞑目・徳目・目を閉じろ。

* 生真面目(キマジメ)な目上の小言はいつでも堅目、あんなの目じゃあない尻目にかけろ、二言目には「目一杯」にと、破れ目・曲がり目・病み目に着目、冬の流行目(ハヤリメ)気をつけろ、口はともかく目は届く、目に一丁字もないのが引け目となって、裏目にでたのは負い目ゆえ、視線を伏せて目を覆う、大目に見たのが運の尽き。

* 頭の後ろに目はないが、目籠(メカゴ)は目だらけ荒目の作り、編み目に網の目・境目見えぬ、裂け目に要心・厚目の竹をあぶる百目ロウソク、目を逸らせるな瞳を凝らせ。

* 三草二目は法華経、俳諧式目連歌の目次、ウオの目つらいぞ憂き目にあって、焦げ目をつけるは五目飯、品目・天目・審美眼、落ち目の跡目に反目あって、弱り目・祟り目・三白眼、まなじり決して一目散、台風の目は鬼の目か・・・これで“体ことば”一巻目の終わりでございます。

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 ・・・川柳 ・・・ 
   “嫁の顔 眼鏡の外で じろりと見”・・・・姑の眼鏡にかなう嫁はなし。

♪♪ーーー 夫婦げんか 謝りそびれて目と目が冴えて、
       二人でみている蛇の目傘、言いたいことも聞きたさも、
        目と目が曇る千万無量ーーー♪♪

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2012年4月18日 (水)

◎ 英語ペラペラ、頭の中も薄っぺら

 最近、ある企業の採用担当者から悩みを聞いた。
 昔、メディア研修で教えたことのある50代のエリートだ。
 このところ、“しっかりした通訳が出来る人間”を探すのに苦労をしているという。
 「今時の若者だから、英語ペラペラなんてのは、そこら中に転がってるでしょう」
 「そうですね。英語ペラペラだけなら、掃いて捨てるほどいますねえ。でもね、一昔前ですと、英語でもフランス語でも外国語が堪能であれば、ある程度、知的レベルとか視野の広さも備わっていた。最近は、そうはいかないんです」
 という。
 「外国語ペラペラ、頭の中はウスッペラですか」
 「ま、一概には言えませんが、その手が増えてきましたねえ」
 「外資系の企業なんか・・・ま、御社もそうだけど、いまでも帰国子女を探して、手を回したりしてるんでしょう」
 「一頃はね、でも、近頃は、かなり事情が違ってきましたね」
 「帰国子女でも、英語が出来るとは限らない」
 「英語が話せるということと、通訳が出来ると言うことは、別ですよね。どうも、そこのところが、今の若い人や、英語教育の関係者は、ゴチャゴチャになっているんじゃないでしょうか。
 フランス語がネイティブで、TOEICが何ぼで、なんて言うので、会ってみると、頭の中がね・・・頭抱えちゃいます。どうなってるんでしょう」
 「ネイティブって言葉を・・・その人たちは勘違いしてるのかな」
 「そうだと思いますね」
 「日本人として日本で生まれ育ったら、ネイティブは日本語しかないよね」
 「そんなの目指したって無理というか、無駄でしょ。でも、特訓で何とかなるかも・・・なんてね」
 「多分。私は、今の日本人の通訳に欠けているのは、日本語力だと思うよ」
 「はあ、そうですね。言葉を理解したり、意味通りに使えたりすることは出来ても、頭の中が空っぽじゃ駄目ですよね。外国語は外国語、セカンドランゲージとして学べばいいんで、『“おかしなネイティブ”を目標にして』ひたすらペラペラ話せばいいと思ってる『勘違い人間』が、沢山できちまったんですねえ、国籍不明の」
 「昔ね。NHKで、石田武さんて、いい先輩がいてね・・・今のタレントの、ほら素足で靴を履いてる、あの人のお父さんだけどね・・・私が渡米するとき、こんなことを教えてくれたな『エレベータが目の前で通り過ぎちゃった。そのとき“ちきしょう”とか、“ああー”と思うのではなくて、“ガッシュ!”って思うのがネイティブなんだな』って。『恒さんは、そんな風に思う必要はないんだよ。念のためね』ってね」
 「と言うことは、『ネイティブになんかならなくっていいのだ』ということでしょ。英語ができても、知的なレベルっていうか、思考力とか、反応の早さとか、発想力とか、要するに我が社の仕事をこなしてゆくのに必要な能力・・・手っ取り早く言えば、総合的な知的能力が欲しいんですがねえ」
・・・・嗚呼! 日本の教育よ まだ目が醒めないのかねえ。

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2012年4月 8日 (日)

* 「50音図の落とし穴」 最後に一言

 このテーマで書きだしたのは、昨年の正月だった。
 以来、
 ・サ行の落とし穴・“シ”。
 ・タ行の三つの落とし穴。
 ・“バ”は“ハ”の濁音ではない!
 ・唇音は「ファ・マ・バ・パ」の四行だ。
 ・「ニッポンかニホンか?
 ・ハ行の反乱①②③
 ・さまよえる“フ”?
 ・滑稽な半濁音の定義。
 ・「ファ行」の再生へ。
 ・「ヤ行 ワ行に子音はない!」
  等々について述べ、日本語の「音の表記」としての50音図について、問題点を列挙した。
 さらに、もっと大切な音、全ての音の根源である<ん>について、ここ三回を費やして述べた。
 ・「ン」は50音の尻尾なのか!
 ・「ン」についての論争!
 ・<ん>は日本語の音の原点だ。
 
 断っておきたいのは、このブログを通して書いてきたことは、50音図をあげつらう為ではないということだ。
 例え、その位置づけに変化があったとしても、欧米のアルファベットに比べれば、「音の表」としての整合性は、はるかに優れているとさえ考えている。そうした観点の上からも、「50音」が、日本語の音の表現について果たす役割は大きいと思っている。
 しかし、この50の音が、「五十聯(いつら)の声」という、皇国の音として神聖で、犯すべからざるものであり、それ以外の全ての音は邪音であるという、国学者達の説から、いつまでも離陸できないのは何故か。そこを考えたいのだ。
 
 かつて小学校で、私たちは50音図を習い、「日本のカナは表音文字で、一つの音を表し、漢字は表意文字である」と教わった。だが、これが間違いであることは明白だ。
 しかし、現在の日本の教育課程では、音の表記については無定見・無関心、何一つ教えようとしていない。また、教える手段も基準も見えない。子ども達は、家庭で母親の口を見て、発音を覚え、ネイティブな言語体験をする。その体験だけに頼って、学校では何一つ“発音”について教えてはいないのが現実だ。これは信じられない事実だ。文化国家として恥ずべき状態だ。
 私たちの日本語の音が、どれだけ混乱し、迷っていても、学者各位は「“ことば”は変化するものだ」と、逃げていてよいのだろうか。
 一例をあげれば、どこの国の辞書をみても、発音記号やアクセントの表記は必ずついているものだ。しかし、日本の辞書に「発音記号・アクセント記号」が書いてあるのを、私は、見た試しがない。(発音のための特殊な辞書は除く)
 言語の成立の歴史をみても、文字主体の表現体系が形成される傾向は否めない。それはそれで日本語の特徴ではある。しかし、現在の国語の声音の扱いは、どうか。「ほとんど音を野放しにしている」状態ではあるまいか。
 私は思う。「音を失った言語は、言語としての資格を失う」。
 
 本居宣長らの国学者の思想、信条に、私は文句をつける積もりはない。だが、国語の音は、紛うことなく言語の基本だ。そこに国史観や哲学・宗教を持ち込むとは許されない筈だ。1ユーザーとして、切歯扼腕する。
 その上、虫食いだらけ、まるでハイウエイに、口を開けた古井戸のごとき落とし穴が無数にある。文科省も「仮名の書き方の表」と譲歩した以上は、古い傷だらけの「50の格子」を取り除いて、「この表は、日本語のアルファベットであり、音の表は別途作成する」と、なぜ言えないのだろうか。
 
 10年ほど前、私としての私案を世に問うたけれど、これは、1ユーザーがやるべき事ではなかろう。
 前にも言ったが、日本語の音節・“拍”は、その数があまりにも少なく、同音異義語が「シロアリのたかるが如く」に繁殖し続けて、音だけでは通じないという、特殊な国語となっている。
 日本語は漢字だけで出来ているのではない。“ことば”の原点は音であり、音の上に文字が乗っているものだ。
 テレビの国会中継を聞いても、我らの“選良”が、まるでヤクザのごとき怒声を浴びせ、官僚の書いた原稿を流し読みしていることさえ恥ずかしいのに、画面に文字でスーパーしなければ意味も分からぬとあっては、健全な国語と言えまい。
 このような、「音への軽視」を続けるならば、「日本語の国際化」への道は絶たれ、日本語は死に絶えるに違いない。大いに憂える所以はここにある。

 これで、ひとまず、「50音図の落とし穴」のシリーズを終わることにします。
 お読み下さって、有り難うございます。

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